無理矢理な設定、大時代的な見栄、無意味に吹っ飛ぶ自動車、アイデアは悪くないんだけどちっとも緊張感のないチェース、華のない二線級のヒロイン…5年近くも前の映画ということを割り引いても明らかにB級なのだが、時に見かけるタミル・テルグのバイリンガル映画のひとつの事例として取り上げてみる価値はあるだろう。
義侠心に富む極道のカーシ(アルジュン)は両親を惨殺した悪漢を追っていた。ムンバイでタクシー運転手をしている友人のスリ(スニル)は、悪漢を目撃して通報する。ムンバイにやってきたカーシはスリの叔父クリシュナムルティ(MS・ナラヤナ)の住むテルグ人コロニーに転がり込む。悪漢の一人(ジーヴァ)を撃ちもらしたカーシはやむなくムンバイに留まることになり、暗黒街のドン、ラヴィバーイ(ラージ・カプール)のもとに草鞋を脱ぐ。と同時に、かれは隣家の娘アンジャリ(ヴェーディカ)に惹かれてゆく。
ムンバイの暗黒街はラヴィバーイと弟のマニバーイ(フェスフィ・ヴィジャヤン)の勢力によって二分されており、両者の抗争のため貧しい人々は心安んじる日がなかった。シヴァ(ジャガパティ・バーブ)はマニバーイの懐刀だったが、かれもまた任侠道に生きる男だった。私生活では実弟のラグーを溺愛し、新妻ミーナー(ガジャナ)と仕合せな新婚生活をおくっていた。シヴァとカーシは対立する組織の中で秘術を尽くして互いにしのぎを削るが、偶然のことからラージャマンドリ刑務所で入獄生活を共にした間柄であるのを知る。
カレッジで学生組合委員長の座をラグーと争ったマニバーイの息子は、部下に命じてラグーを痛めつける。これを知ったシヴァは憤然とマニバーイのもとを去る。弟の安否を気遣うシヴァはかれの身をカーシに託す。それを知ったラヴィバーイはシヴァを誘き寄せて始末するようカーシを唆す。カーシはこれを退けてラヴィバーイと袂を分かつ。
身の危険を感じた二大ギャングは手打ちしてシヴァとカーシの命をねらう。アンジャリを殺害することでカーシをまんまと誘き出した隙にラグーの隠れ家を急襲し、これを暗殺する。怒髪天を衝いたシヴァはギャング一味の殲滅を誓う。カーシはシヴァに説いて、真人間であるラヴィバーイの息子を助命するよう主張するが、シヴァは肯んじない。ギャング一味を追い詰めたシヴァとカーシはほとんどを皆殺しにするが、ラヴィバーイの息子を庇うカーシは致命の負傷を追う。かれはシヴァにラヴィバーイの息子の助命を嘆願して事切れるのだった。
アクション・キングのアルジュンはカルナータカ出身だが名声をなしたのはタミル語映画界であるから、これをタミル俳優に分類しても特に軽率の誹りを受けることはなかろう。因みにアクション・キングというのは普通名詞ではなく、本人の自称するエピテートである。そういえば本編でコメディアンのスニルがアルジュンを指して「こいつがアクション・キングなら俺様はリアクション・キングだ」と地口をかますところがあってクスッと笑った。
閑話休題。アルジュンはタミル俳優に属すとは言い条、テルグでも何本かの作品には顔を見せてるもののようだ。ほとんど不分明なのだが、唯一K・ラガヴェンドラ・ラオの名作神様映画Sri Manjunathaでの熱演は記憶に残る。聞き知るところではカンナダ俳優にとってはテルグ語というのは割と修得するのにハードルの高くない言語のようで、タミル語のように隅から隅までチンプンカンプンというわけではないらしい。そもそもタミル語もテルグ語も母語ではないアルジュンにとって、科白回しにさほどの困難を感じなかったろうことは殊更想像に難くない。そこでかれが手に染めたのが、タミルとテルグのバイリンガル、すなわち同一の映画でタミル語とテルグ語の2種類のバージョンを製作して、両方の市場へ売り込もうとする企画である。そのためストーリーにも変則的なツインヒーローを採用して、アーンドラの衆にはお馴染みのジャガパティ・バーブを共演者に据えた。些かややこしいが本作のタミル語版であるMadrasiから見ると、これがジャガパティ・バーブにとってタミル語映画初進出作となる。
ここでいうバイリンガルとは何なのか。単純にテルグ語で作った作品に科白だけタミル語を被せる(またはその逆)のではない。事がそれほど簡単に済むのなら、圧倒的な資本力と人気を誇るボリウッドはとっくの昔にサウスを制圧していたろう。ここ数回マニラトナムが試みたヒンディー・タミルのバイリンガルのハイバジェット映画が惨敗に終わっている(少なくとも南北同時にブレークしたことがない)のを見れば、バイリンガルで成功するのには一定の克服すべき障害が横たわっていることが分かるだろう。
タミル語版を見てないのである程度想像を交えて説くのだが、タミル語版Madrasiとテルグ語版Sivakasiを同時作成するにあたっては、次の3つのパートに分けて撮影したに違いない。
- 両バージョンで共通して使えるパート
- 俳優やシチュエーションは両バージョン同一で、唇の動きだけ別々なのが必要なパート
- 役者を入れ替えて別々に撮影したパート
格闘やチェースシーン、それに人物の口の動きがはっきりと確認できないフルショットなどが1に相当したと思われるが、総量からしてこれが過半を占めたものと想像できる。そうでなければ俳優も何もかも入れ替えて初手から別の映画を撮った方が、まだしもましである。インド映画でいわゆるリメークが横行してもバイリンガルが少数派のままなのは、この手の煩瑣を嫌ってのこともあるのだろう。
2はタミル語のバージョンとテルグ語のバージョンを(どっちが先かは分からないが)交互に撮っていったのだろう。セットや衣装の二度手間を省くためにはそうするのがいちばん合理的だからだ。無論ここでさらりと片付けてるほど事は簡単ではなく、ライティングの面で様々な技術的対応が必要になって来たに違いないのだが、そこは撮影スタッフの経験とスキルの高さで何とか乗り切ったのだろう。スクリプト・ガールや助監をやった人にはつくづく同情したい。
問題というか、この映画で面白いのは3の部分である。上のシノプシスに書いたようにこの映画のコメディアンはスニルなのだが、ソングシーンに限って時々タミルのコメディアン、ヴィヴェクが顔を見せるのである。ある曲などでは(それはホーリー祭を祝う祝祭的ソングなのだが)スニルとヴィヴェクが同時の登場して、アルジュンの両翼でひとさし舞ってみせるのだ。因みに言っておくと、アルジュンは決してダンスは得手ではないが全然踊れないジャガパティ・バーブよりはマシ、ヴィヴェクはコメディアンにしてはきっちり踊れるほう、そしてスニルは凡百のヒーローよりはるかに踊りが巧い。
何故ソングシーンだけにヴィヴェクが登場するのかと言えば、もうお分かりであろうが、この映画、タミル語版とテルグ語版でコメディアンを入れ替えているのである。自分の見たSivakasiではスニルがコメディアンながら重要な役割を果たすのであるが、Madrasiではその役はヴィヴェクがやったとおぼしい。というか、ネットのレビューではそうだとはっきり書いてある。基本がダブ(吹き替え)のバイリンガルでも、ギャグだけは観客に親しみの持てる母国語話者でなくてはならないものらしい。地口や早口言葉など、やはりネイティヴでないと操りかねるからだろう。インドの地方語映画では音楽監督やコレオグラファー、それに主演女優に悪漢役には互換性があるが、ヒーローとコメディアンだけは他言語圏に「越境」しないことがこれを裏づけている。3のパートはやむなく別々に撮影したものが、唯一ソングソーンだけは複数バージョンを撮る余裕がなく(予算を喰うという意味では群舞を伴うソングはとりわけ厄介者で、資金繰りが苦しくなってくると真っ先にオミットされてしまう)両バージョンのコメディアンが同居することになったのだろう。
この映画ではもうひとりコメディアンとしてMS・ナラヤナが出てるが、タミル語版にも出演しているか否か未確認であるものの、チョイ役なので出てる可能性は高いと思う。これ以外に両バージョンで入れ替えが行われた主要キャラクターがあるかどうか、Madrasiを見てないので断定は出来ないが、たぶんこれが唯一の事例だろう。もっとも維基百科によればタミル語版ではツインヒーローがともに倒れるとのストーリーが紹介されているので、両バージョンに激しい異同のある可能性は皆無とはいえない。しかしこのページには言語が英語だとしているように納得できない記述が多い。こんな凡作いまさらタミル語版を見る気力はないので、鑑賞済みの奇特な御仁あらば是非との情報の提供をお願いしたい。
そもそも自分がこれを鑑賞しようとした理由は、オンラインショップではシンドゥー・トーラニが出てるとの記述があったからだが(確かにジャケットにもそう書いてある)目を皿のようにしてもどこにも姿は見えなかった。こういう嘘や間違いはインド映画では枚挙に暇がない。
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