現在NTR主演のIndrajitを見ているのだが(相変わらずホームシアターのスクリーンの前に座ってる時間ないので通勤の行き帰りにiPadで途切れ途切れに見ている)、幾つか不思議の思うことがある。過半は自分のヒンドゥー神話に関する無知から来るものに違いないが、忘れないうちにここに書き留めて、今度の勉強のよすがとしたい。 ①サウスの映画ではラーマヤーナで敵役にまわるランカーの阿修羅一族、殊にラーヴァナやその皇子を英雄に見立てるものが少なくない。これは単なる判官贔屓なのか、それとも南部のドラヴィダ系には被征服者という意味でラーヴァナの一族に親近感を持っているのか。しかし一方でサウス、殊にテルグはラーマとその使徒、猿神アンジャーナヤへの熱例な崇拝の中心地である。
②敵役としてのインドラ。寡聞にしてこれまでインドラを英雄として描写したサウス産の神様映画にお目にかかったことがない。大体にしてインドラは、怯懦で好色、臆病きわまりない卑劣漢として登場するところに共通点がある。今見てる映画もNTR演じるメガナーダはラーヴァナの息子なのだが、インドラを撃って獄に繋ぎインドラジット(インドラ殺し)の称号を得るのである。
③ブラーマの自分勝手さ、もしくは中立性。創造神ブラーマは、仮に相手が天敵の魔族であっても、自分への献身を嘉すると、ほいほいと不死身だの無敵だのといった天恵を与えてしまう。神々にしてみれば、こんな迷惑な話はない。しかもそうした不死性が、100%完璧な不死ではなく、某の儀礼を欠かさなかった場合に限りとか、何かと煩わしい条件がついていることが多い。どことなく霊感商法に似ている。ブラーマは至高三神(トリムルティ)の一柱に数えられるにもかかわらず、シヴァやヴィシュヌに比較してほとんどまったく崇拝されないことはよく知られている。映画では冒頭に登場して英雄に天恵を付与し、そこから物語を起動させる(最終的には英雄は天恵を奪取されて破滅するという悲劇になる場合が多い)たったそれだけの役割を担っていることが大半である。
④ラーヴァナ一族が熱心なシヴァ神への帰依者であること。これは映画だけではなく、古来より伝わる種々のプラーナがラーヴァナのシヴァ崇拝に関して語っているものである。無論ラーマはヴィシュヌの化身であるからランカーでヴィシュヌ崇拝が行われいては辻褄が合わないということもあるだろうが。この映画ではメガナーダの新妻はラーヴァナの王宮でヴィシュヌに祈っていて、義母のマンドダリにそれを咎められる。
②敵役としてのインドラ。寡聞にしてこれまでインドラを英雄として描写したサウス産の神様映画にお目にかかったことがない。大体にしてインドラは、怯懦で好色、臆病きわまりない卑劣漢として登場するところに共通点がある。今見てる映画もNTR演じるメガナーダはラーヴァナの息子なのだが、インドラを撃って獄に繋ぎインドラジット(インドラ殺し)の称号を得るのである。
③ブラーマの自分勝手さ、もしくは中立性。創造神ブラーマは、仮に相手が天敵の魔族であっても、自分への献身を嘉すると、ほいほいと不死身だの無敵だのといった天恵を与えてしまう。神々にしてみれば、こんな迷惑な話はない。しかもそうした不死性が、100%完璧な不死ではなく、某の儀礼を欠かさなかった場合に限りとか、何かと煩わしい条件がついていることが多い。どことなく霊感商法に似ている。ブラーマは至高三神(トリムルティ)の一柱に数えられるにもかかわらず、シヴァやヴィシュヌに比較してほとんどまったく崇拝されないことはよく知られている。映画では冒頭に登場して英雄に天恵を付与し、そこから物語を起動させる(最終的には英雄は天恵を奪取されて破滅するという悲劇になる場合が多い)たったそれだけの役割を担っていることが大半である。
④ラーヴァナ一族が熱心なシヴァ神への帰依者であること。これは映画だけではなく、古来より伝わる種々のプラーナがラーヴァナのシヴァ崇拝に関して語っているものである。無論ラーマはヴィシュヌの化身であるからランカーでヴィシュヌ崇拝が行われいては辻褄が合わないということもあるだろうが。この映画ではメガナーダの新妻はラーヴァナの王宮でヴィシュヌに祈っていて、義母のマンドダリにそれを咎められる。
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