「祈る」ことは主体者と対象との間に社会的な関係を構築することである。神と人との「契約」である。それゆえ祈りはロゴスによってなされねばならない。また神は人格神であらねばならない。契約は自由意志をもってしか交わすことができないからだ。神と人との間に法的な契約関係が成立しているので、違約は言語によって定められた規約に則って罰せられる。十戒に細かな細目が規定されているゆえんである。それゆえ、この契約は普遍性を持つ。契約内容に汎用性がある限り、新たな信者=契約者に対しても適用することが可能だからだ。一方の契約者である神が絶対的に契約を履行する限り、他方の契約者である人には、出自や人種や文化環境といった相違に左右されない。これは「法の下での平等」という発想の根本であり、基本的人権の起源でもある。
一方「拝む」ことは、ダルシャンを通じてなされる。それは人が神を「見る」だけではなく、人が神によって「見られる」ことも意味する。
この場合、神と人との関係はあくまで個人的である。そこに何らかの約束がなされたとしても、履行を担保するものはどこにもない。その約束には汎用性がなく、普遍化され得ない。誰かが神の禍福を蒙ったからといって、他者が同様の結果に至ることは保証されていないのである。ここにおいて、はじめてバクティが意味を持つ。バクティは「無償の愛」であるが、それは母が子を慈しむたぐいの愛ではない。人は神からの視線をつなぎとめるためにバクティする。しかしそのことによって神から見られ続けるか否かを担保するものはどこにもない。バクティはある意味でストーキングに近い。神からなんらかの見返りを期待するのではなく、バクティするという行為そのものに意味がある。それは自尊心を保つための営為であり、見返らないかも知れない神に対して(そしてしばしば神は見返らない)人間としての尊厳を維持するための唯一の方策である。人はどのような苦難に陥ろうともバクティをつづける。なぜなら、バクティを中断することは、人間としてのそれまでの営為をすべて否定することになるから。というのは、バクティは人が自由意志から自発的に選択したものだからである。これは一種のアディクトである。が、同時にヒューマニスティックな悲劇性がある。なぜならここに、自由意志は一方的にしか働かないから。自由意志は人間の側に独占されているから。神が見返らなかった場合(そして神はしばしば見返らない)それは神が意図して見返らなかったのではなく、そもそも最初から神が存在しなかった可能性が否定できないのだ。そのことを知りながらバクティを続けることにこそ偉大さがある。バクティ伝承ではほとんどの場合、帰依者のバクティは見返りを受けてハッピーエンディングに終わる。しかしこれはバクティという信仰の形態を布教するための方便でしかないだろう。信仰としての重要性はバクティという行為にしかない。したがってバクティにおける苦行は究極的な自己解放を目指したり(これは近代的神秘主義の文脈の中にある)、あるいは梵天から超自然的な法力を得る(これは古代的なヴェーダの文脈の中にある)ためのものではない。それは何らかの超越性を希求するものではない。あくまで人が人間的な次元に留まり続けようとするための英雄的な行為なのである。
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