2010年11月28日日曜日
2010年11月26日金曜日
Nithya in Santosh Sivan's Urimi
I've heard a little about this Santosh Sivan's venture of a historical from Nithya directly, but the news on the Net revealed that Vidya Balan, Tabu and Vikram joined it and Genelia shifted her role from a Portuguese princess to a native girl.
Prithviraj fan site in Facebook shows the pictures of Nithya in this film. Nithya in historical costume is also fantastic.
Kodaikanal, Hotels in kodaikanal, Kodaikanal Resorts, Kodaikanal Hotels

Kodaikanal is one of the most popular hill resorts in India. It is a charming hill station, stands amidst sylvan beauty on the southern crest of the upper Palani Hills near Madurai in Tamil Nadu. With its rocks, woods, lovely lake and bracing air, Kodaikanal is an ideal hill resort for the tourists.
Kenan Turkish Restaurant
[[posterous-content:pid___0]]タイフーンさんとこのお店に行ってきた。場所はお洒落な北野の一等地(?)。何とかいうフレンチの隣である。
[[posterous-content:pid___1]]
ディナータイムもタイフーンさんが一人で切り盛りしてます。大丈夫なのかな?一人息子のケナン君もお皿洗いのお手伝いに来たことがあるそうな。[[posterous-content:pid___2]]
内装は奥さん主導?センスの良さが光ります。
[[posterous-content:pid___3]]ごちそうさまでした。
[[posterous-content:pid___4]]
2010年11月24日水曜日
Ala Modalaindi Movie Video Trailers – Nani, Nithya Menon, Ashish Vidyarthi | Telugu Movie Trailers
Ala Modalaindi Movie Video Trailers – Nani, Nithya Menon, Ashish Vidyarthi
Advertisements:
Ala Modalaindi Movie Video Trailers – Nani, Nithya Menon, Ashish Vidyarthi. Latest Telugu film Ala Modalaindi promos starring Nani, Nithya Menon and Ashish Vidyarthi.
Share/Bookmark :
Related posts:
- Kerala Actress Nithya Menon Hot Wallpapers
- Bava Movie Video Trailers and Promos – Siddharth, Pranitha
- Bollywood Film Robot Video Trailers – Aishwarya Rai, Rajnikanth
- Siddharth’s New Movie Putham Pudhu Kadhali in Tamil (180 in Telugu)
- Ram Charan Teja Orange Movie Video Songs Full Promos
- Jackie Full Video Songs – Powerstar Puneeth Rajkumar, Parvathi Menon
- Noor E Khuda video song from movie My Name Is Khan
- Endhiran Movie Trailers (Fan Made) – Rajinikanth, Aishwarya Rai
- Telugu Movie Mahesh Khaleja Video Trailer – Mahesh Babu, Anushka
- Golmaal 3 New Unseen Dialogue Trailers and Promo Videos
Read More About: Ala Modalaindi, Ashish Vidyarthi, Nani, Nithya Menon
2010年11月23日火曜日
Veruthe Oru Bharya--Simply a Wife (2008)
特別な予備知識もなく、別にお好みの女優が出てたわけでもないのだが、現地での好評を耳にしていたので見てみた。
舞台は現代のケーララ州トリチュール。電力公社に勤めるスグナン・チェッタン(ジャヤラーム)は口うるさい亭主関白で、妻ビンドゥ(ゴーピカ)の家事労働をまったく評価せず、難癖ばかりをつけていた。スグナンはまた女性上司(ソナ・ナーイル)のフェミニスト運動を公然と軽蔑するような保守的な男だった。
スグナンとビンドゥの間には徐々に亀裂が入ってゆく。仕事仲間の家族とコダイカナルに観光旅行に出かけた時もスグナンは何かと理屈をつけてはビンドゥを遊ばせず、自分は酩酊して喧嘩騒ぎを起こす。帰宅後、スグナンのわがままから実母の死に目に遭えなかったビンドゥは、とうとう愛想をつかして実家に帰ってしまう。
片意地なスグナンは妻に頭を下げることを潔しとせず、何とかやりくりして家のきりもりをしようとするが、悉く頓挫する。特に問題だったのは思春期の娘アンジャリ(ニヴェディタ)に目配りが利かないことだった。アンジャリはボーイフレンドとこっそりドライブに出かけた先で不良に乱暴されかかり、辛うじて警察に救われる。警部(ラヘマーン)はスグナンの配慮不足を厳しく指摘して、父娘を家に帰す。
追いつめられたスグナンの精神は平衡を失う。かれは娘を自宅に軟禁して学校にも行かせず、遂には自分も無断欠勤して自宅に閉じこもるようになる。電話が不通になっているのを訝しんだビンドゥは夫の同僚カビール(スーラジ・ヴェンジャラモード)たちを伴って自宅へと急ぐ。そこでかれらの見出したのは高熱にうなされるアンジャリと正気を失ったスグナンの姿だった。スグナンは妻と友人たちを強姦魔と信じ込み、娘を守るために鉄パイプを振るうが、誤ってアンジャリの頭部を強打してしまう。
病院で正気に戻ったスグナンは主治医からビンドゥとの復縁を勧められ同意する。回復したアンジャリは両親の手を取って結び合わすのだった。
あまり評価できない映画だった。さすが芸達者な俳優の層が厚いマラヤーラム語映画だけあって、ビンドゥの父親役のイノセント、同僚役のシヴァージ・グルヴァユール、警部役のラヘマーンなど端役に至るまで演技は見事。衣装と化粧にだけやたら金かかっていて演技は学芸会並みのボリウッドとは明らかに格が違う。とりわけジャヤラームの好演は特筆に値するもであり、吝嗇で見栄っ張り、小心者のくせに片意地という小市民の卑小下劣を鮮やかに演じきっていた。しかしそれらが映画全篇の醍醐味と結びついて来ないのである。ひとつには後半部のスグナンの壊れかたにやや唐突感があるためか。妻の別居とストレスから来るノイローゼともう少しダイレクトに直結するような挿話なり描写が必要だったのではあるまいか。
しかし何といっても最大の難点は、題材そのものがわざわざ映画を1本撮る必要もないものだということではあるまいか。これだったらテレビドラマで充分だ。コケオドシといわれようと虚飾といわれようと、映画には映画として撮るべきそれなりのヴォリュームを具えた題材が必要だ。こうしたファミリードラマがそれに相当するとは思えない。と同時に、この作品が現地で受けたというところに、ツインタワーの寡頭支配体制確立以来急速に縮小傾向にあるマラヤーラム語映画界が抱える構造的問題の所在が明らかになっているように思われる。今やマラヤーラム語映画の優秀さは、もっぱら良質の風習喜劇(Comedy of Manners)を生み出すところにしか、機能を発揮しないようになってしまった。なんで風習喜劇しか作れないかといえば、観客に中産階級しかいないからである。ケーララではもう、映画は労働者階級のものではなくなってしまった。中産階級の生活習慣を超えたような(あるいは下回ったような)度外れた想像力の跳躍、それが生み出すところのヴォリュームの厚さはここでは最早望むべくもない。じゅうぶん分かってはいたことながら、やはり大いに残念である。
2010年11月22日月曜日
Anjana Ali Khan | Veppam Director Anjana Ali Khan | Nani | Gautham Menon | Bindu Madhavi - Interviews

Anjana Ali Khan was an assistant director with Gautham Menon for long years. She directed Veppam the Heat in Tamil. Nithya is the heroine there.
Anjana Ali Khan | Veppam Director Anjana Ali Khan | Nani | Gautham Menon | Bindu Madhavi - Interviews

Anjana Ali Khan was an assistant director with Gautham Menon. She directed Veppam the Heat in Tamil. Nithya performs the heroine there.
Nithya Menon | Ala Modalaindi Heroine Nithya Menon | Nani | BV Nandini Reddy - Interviews

This is probably her first attempt of singing in a film song. Actually, a multi-talented actress!
ブンブン堂のグレちゃん
先日K文庫で購入。
グレゴリ青山は自分の頭の中では野火杏子や松岡環のお仲間に分類されているのだが、ちょっと毛色が変わってるように思う。いかにもはんなりしているように見えて実は芯から腹黒い、典型的な京都人の匂いがするのだ。
グレゴリ青山が阪急古書のまちの某書店(梁山泊か?)でバイトしていた頃のことを綴った私小説マンガ。期待してたほど面白くなかった。グレゴリ青山にしてはキレが鈍いような気がする。
ちなみに、このマンガには生田耕作がキャラとして登場する。その意味では珍本かも。
2010年11月20日土曜日
Tulum peyniri
クレム・サンタギュールがなくなったので芦屋のいかりまで買いに行った。我が家の近辺のいかりでは、昔は置いてあったが要するに売れないのだろう、今はとりあつかってない。
帰路に罰当り土耳古人のところに寄った。コヌックさんは店頭でせっせとドネル・ケバブを焼いていた。冬になって外気が冷たくなると、ケバブを焼く香ばしい香が遠くにまで漂って、ついふらふらとテークアウェイを注文してしまう。これはイギリスでフィッシュ&チップスが売れるのと同じ理屈だ。
この写真は、通りかかったおねーちゃんを口説いてるところ。商売熱心というよりは、単に助平なだけか。
コヌックさんのところへ行ったのは、タイフーンさんが今度北野に出した新しい店について情報を得るためだった。誰それ?と思う人は多いだろうが、『トルコで私も考えた』の登場人物にして作者の旦那さんといえば、ははあと膝を打つ人もあるのではないか。広い世間には、こうした民間から発信された情報に多大の影響を受けて、トルコ語の勉強を始めたりトルコ詣でを繰り返したりする女性が、インドおたくほどの数ではないにせよ、一定数いるらしいのだが、こうしたトル女(笑)ともいうべきファン層を生み出すにあたっては、高橋由佳利の果たした役割は大きいと思われる。メタ坊自身はマンガはほとんど読んだことないのだが、タイフーンさん自身のことならよく知っている。インテリで遠慮深いタイフーンさんが北野の上でお店をやってけるのだろうかという懸念は強い。ましてや何処の誰とは名指ししないが、亜大陸から来た連中が仁義無用の阿漕な商売を繰り広げてる激戦エリアである。食事のお客さんが退けるのを待って、トルコ・チャイ+ピスタッチオのバクラワしながら、コヌックさんから事情を聞く。
話の内容は、いずれ項を改めて記す機会もあるだろうから、ここでは省く。要するに結論としては、早目に一度行っておいた方がいいだろうということになった。近いうちに誰かを誘って訪問してみよう。
偖、おねーちゃんはもとより何につけても好奇心強いコヌックさんは、早速メタ坊が購ってきたクレム・サンタギュールに強い関心を示すので、試食ということになった。最初はパンに塗っただけ、次に一緒にケバブを乗っけて、最後には色々野菜も入れた方がいいだろうということになって、あっという間に新メニューが完成してしまった。名称はあとから罰当り土耳古人が適当にデッチあげるのだろう。
サンタギュールのような青カビ系チーズはもちろんトルコにもあって、いちばん近いのはトゥルム・ペイニリと呼ぶらしい。羊の皮でくるんで発酵させるのだが、数年かける長期熟成も珍しくないそうだ。というより、熟成を目的にしたというよりは、要するに田舎の保存食なのである。そうした熟成したチーズを多種のハーブと一緒にパイ生地にくるんでオーヴンで焼くメニューがあるらしい。聞くだに美味そうである。これをアテにラクをぐびぐび飲ったら最高と言ってたがさもありなん。
因みにTulum peyniriのペイリニというのはどうもパニールと語源が同じらしい。調べたことないが、してみるとヒンディー語にはペルシャ語かアラビア語経由で入ったと思しい。てことはインドにおける発酵チーズの歴史は思いのほか浅く、千年足らずしかないのかも知れない。余談だが、リンクを張ったトルコ語の維基百科は読めそうで読めなくてもどかしい。
完成した新メニューだが、ひとつ大きな難点がある。これだけもラクの肴としてじゅうぶんいけるのである。お蔭でお相伴したメタ坊は帰宅後ぐっすり寝込んでしまい、今日中に書き上げなくてはならない書類がひとつ落ちてしまったではないか。背教者と付き合うとロクなことがない。
Sati Sulochana (1961)
阿修羅の王ラーヴァナ(SV・ランガ・ラオ)の息子メガナーダ(NT・ラーマ・ラオ)は凄まじい苦行のすえ創造神ブラーマから無敵の力を得る。かれはインドラロクに攻め込み、恐れをなしたインドラ神(ミッキリネリ・ラーダクリシュナ)は地底のナーガロクに逃亡する。くちなわの王(ナーガラジュ)アディシェシャに保護されたインドラはスローチャナ姫(アンジャリ・デヴィ)の美貌を見てこれを誘惑しようとするが、メガナーダに阻まれる。メガナーダはインドラを捕らえて獄に繋いだことからインドラジットの異名で呼ばれるようになる。またかれはスローチャナを妻としてランカー島に連れ帰るが、憤怒した蛇の王は人間に転生してメガナーダを倒さんことを誓う。
スローチャナ姫はラーヴァナの宮廷に暖かく迎えられるが、シヴァ崇拝しか認められないランカーでヴィシュヌ神を拝んだことから、ラーヴァナの怒りを買う。インドラジットがスローチャナを冷遇したのを知ったヴィシュヌ(カンタ・ラオ)は、人間に転生して阿修羅のうからを懲罰せんと決意する。ラーマとなったヴィシュヌは弟ラクシュマナと猿の軍勢を率いて、奪われた妻シータ(ラージャシュリ)奪還のためランカー島に攻め入る。ラクシュマナ(ラーマクリシュナ)はインドラジットに対峙して奮戦するが、陰ながらスローチャナに守られた敵を倒すことができない。しかし、ラーヴァナはマンドダリ(サンディヤ)の制止を無視してスローチャナのヴィシュヌへの祈願を遮る。インドラジットは首級を失って息絶える。
スローチャナは愛する夫の首級を探して戦場をさまよう。ラーマは彼女にインドラジットの頭部を返し、ラクシュマナは蛇王の転生であったことを明かす。インドラジットの首級は己の非を詫びて妻に食物を与える。スローチャナは夫のかたわらで息絶え、二人の魂は天上で幸福に暮らす。
詳細なフィルモグラフィはこちらを参照されたいが、広く知られたラーマーヤナの比較的忠実な映像化であると言える。NTRやSVRの歌舞伎調の演技も見物だが、主筋は貞淑な妻スローチャナの苦悩を描くところにある。
「スローチャナの殉死」は巷間にあまねく流布した挿話であるらしく、初期のインド映画にはこれに取材したものが少なくない。例えば1931年にリリースされた最初のカンナダ語映画がそうである。一般に知られるスローチャナの死は、夫の葬送の炎に身を投じて殉死するという文字通りの「サティ」なのであるが、この作品(テルグ語版)では夫の傍らで死に絶えるという描写に置き換えられている。
なお、本作は神様映画の例に洩れず音楽メドレーとしての一面を持っており、当時の人々に愛唱されるようになる名曲を幾つかふくんでいる。しかしここで強調したいのは、信じがたいほどハイレベルなダンスを披露する1曲があることだ。ジェミニ・チャンドラとサイスブラクシュミの名がクレジットされているが、いずれも本職の踊り子なのだろう。あんまり見事なのでここにあげておく。
2010年11月19日金曜日
2010年11月18日木曜日
神様映画の不思議
②敵役としてのインドラ。寡聞にしてこれまでインドラを英雄として描写したサウス産の神様映画にお目にかかったことがない。大体にしてインドラは、怯懦で好色、臆病きわまりない卑劣漢として登場するところに共通点がある。今見てる映画もNTR演じるメガナーダはラーヴァナの息子なのだが、インドラを撃って獄に繋ぎインドラジット(インドラ殺し)の称号を得るのである。
③ブラーマの自分勝手さ、もしくは中立性。創造神ブラーマは、仮に相手が天敵の魔族であっても、自分への献身を嘉すると、ほいほいと不死身だの無敵だのといった天恵を与えてしまう。神々にしてみれば、こんな迷惑な話はない。しかもそうした不死性が、100%完璧な不死ではなく、某の儀礼を欠かさなかった場合に限りとか、何かと煩わしい条件がついていることが多い。どことなく霊感商法に似ている。ブラーマは至高三神(トリムルティ)の一柱に数えられるにもかかわらず、シヴァやヴィシュヌに比較してほとんどまったく崇拝されないことはよく知られている。映画では冒頭に登場して英雄に天恵を付与し、そこから物語を起動させる(最終的には英雄は天恵を奪取されて破滅するという悲劇になる場合が多い)たったそれだけの役割を担っていることが大半である。
④ラーヴァナ一族が熱心なシヴァ神への帰依者であること。これは映画だけではなく、古来より伝わる種々のプラーナがラーヴァナのシヴァ崇拝に関して語っているものである。無論ラーマはヴィシュヌの化身であるからランカーでヴィシュヌ崇拝が行われいては辻褄が合わないということもあるだろうが。この映画ではメガナーダの新妻はラーヴァナの王宮でヴィシュヌに祈っていて、義母のマンドダリにそれを咎められる。
2010年11月11日木曜日
2010年11月9日火曜日
Obama in India
Copyrights of Indian Film Songs
'Bheemavaram Bolloda' is one of the best songs in Nagarjuna's career. Though most film makers hardly care to acquire copyrights of songs, the unit of this Sumanth starrer approached the original composer Keeravani for his approval to remix the song and reportedly, Keeravani happily accepted.
http://in.movies.yahoo.com/news-detail/105565/Bheemavaram-Bolloda-remix-in-Su...
2010年11月8日月曜日
2010年11月7日日曜日
Fausto's new restaurant
Fausto Sivelli opened his new restaurant today at the Hunter Zaka, Kitanocho.
I had no chance to visit him today. Tomorrow I'll pass my congrats to him.
The contact # of his new restaurant is: 0782513306, and his blog is here.
Sivakasi (2006)
無理矢理な設定、大時代的な見栄、無意味に吹っ飛ぶ自動車、アイデアは悪くないんだけどちっとも緊張感のないチェース、華のない二線級のヒロイン…5年近くも前の映画ということを割り引いても明らかにB級なのだが、時に見かけるタミル・テルグのバイリンガル映画のひとつの事例として取り上げてみる価値はあるだろう。
義侠心に富む極道のカーシ(アルジュン)は両親を惨殺した悪漢を追っていた。ムンバイでタクシー運転手をしている友人のスリ(スニル)は、悪漢を目撃して通報する。ムンバイにやってきたカーシはスリの叔父クリシュナムルティ(MS・ナラヤナ)の住むテルグ人コロニーに転がり込む。悪漢の一人(ジーヴァ)を撃ちもらしたカーシはやむなくムンバイに留まることになり、暗黒街のドン、ラヴィバーイ(ラージ・カプール)のもとに草鞋を脱ぐ。と同時に、かれは隣家の娘アンジャリ(ヴェーディカ)に惹かれてゆく。
ムンバイの暗黒街はラヴィバーイと弟のマニバーイ(フェスフィ・ヴィジャヤン)の勢力によって二分されており、両者の抗争のため貧しい人々は心安んじる日がなかった。シヴァ(ジャガパティ・バーブ)はマニバーイの懐刀だったが、かれもまた任侠道に生きる男だった。私生活では実弟のラグーを溺愛し、新妻ミーナー(ガジャナ)と仕合せな新婚生活をおくっていた。シヴァとカーシは対立する組織の中で秘術を尽くして互いにしのぎを削るが、偶然のことからラージャマンドリ刑務所で入獄生活を共にした間柄であるのを知る。
カレッジで学生組合委員長の座をラグーと争ったマニバーイの息子は、部下に命じてラグーを痛めつける。これを知ったシヴァは憤然とマニバーイのもとを去る。弟の安否を気遣うシヴァはかれの身をカーシに託す。それを知ったラヴィバーイはシヴァを誘き寄せて始末するようカーシを唆す。カーシはこれを退けてラヴィバーイと袂を分かつ。
身の危険を感じた二大ギャングは手打ちしてシヴァとカーシの命をねらう。アンジャリを殺害することでカーシをまんまと誘き出した隙にラグーの隠れ家を急襲し、これを暗殺する。怒髪天を衝いたシヴァはギャング一味の殲滅を誓う。カーシはシヴァに説いて、真人間であるラヴィバーイの息子を助命するよう主張するが、シヴァは肯んじない。ギャング一味を追い詰めたシヴァとカーシはほとんどを皆殺しにするが、ラヴィバーイの息子を庇うカーシは致命の負傷を追う。かれはシヴァにラヴィバーイの息子の助命を嘆願して事切れるのだった。
アクション・キングのアルジュンはカルナータカ出身だが名声をなしたのはタミル語映画界であるから、これをタミル俳優に分類しても特に軽率の誹りを受けることはなかろう。因みにアクション・キングというのは普通名詞ではなく、本人の自称するエピテートである。そういえば本編でコメディアンのスニルがアルジュンを指して「こいつがアクション・キングなら俺様はリアクション・キングだ」と地口をかますところがあってクスッと笑った。
閑話休題。アルジュンはタミル俳優に属すとは言い条、テルグでも何本かの作品には顔を見せてるもののようだ。ほとんど不分明なのだが、唯一K・ラガヴェンドラ・ラオの名作神様映画Sri Manjunathaでの熱演は記憶に残る。聞き知るところではカンナダ俳優にとってはテルグ語というのは割と修得するのにハードルの高くない言語のようで、タミル語のように隅から隅までチンプンカンプンというわけではないらしい。そもそもタミル語もテルグ語も母語ではないアルジュンにとって、科白回しにさほどの困難を感じなかったろうことは殊更想像に難くない。そこでかれが手に染めたのが、タミルとテルグのバイリンガル、すなわち同一の映画でタミル語とテルグ語の2種類のバージョンを製作して、両方の市場へ売り込もうとする企画である。そのためストーリーにも変則的なツインヒーローを採用して、アーンドラの衆にはお馴染みのジャガパティ・バーブを共演者に据えた。些かややこしいが本作のタミル語版であるMadrasiから見ると、これがジャガパティ・バーブにとってタミル語映画初進出作となる。
ここでいうバイリンガルとは何なのか。単純にテルグ語で作った作品に科白だけタミル語を被せる(またはその逆)のではない。事がそれほど簡単に済むのなら、圧倒的な資本力と人気を誇るボリウッドはとっくの昔にサウスを制圧していたろう。ここ数回マニラトナムが試みたヒンディー・タミルのバイリンガルのハイバジェット映画が惨敗に終わっている(少なくとも南北同時にブレークしたことがない)のを見れば、バイリンガルで成功するのには一定の克服すべき障害が横たわっていることが分かるだろう。
タミル語版を見てないのである程度想像を交えて説くのだが、タミル語版Madrasiとテルグ語版Sivakasiを同時作成するにあたっては、次の3つのパートに分けて撮影したに違いない。
- 両バージョンで共通して使えるパート
- 俳優やシチュエーションは両バージョン同一で、唇の動きだけ別々なのが必要なパート
- 役者を入れ替えて別々に撮影したパート
格闘やチェースシーン、それに人物の口の動きがはっきりと確認できないフルショットなどが1に相当したと思われるが、総量からしてこれが過半を占めたものと想像できる。そうでなければ俳優も何もかも入れ替えて初手から別の映画を撮った方が、まだしもましである。インド映画でいわゆるリメークが横行してもバイリンガルが少数派のままなのは、この手の煩瑣を嫌ってのこともあるのだろう。
2はタミル語のバージョンとテルグ語のバージョンを(どっちが先かは分からないが)交互に撮っていったのだろう。セットや衣装の二度手間を省くためにはそうするのがいちばん合理的だからだ。無論ここでさらりと片付けてるほど事は簡単ではなく、ライティングの面で様々な技術的対応が必要になって来たに違いないのだが、そこは撮影スタッフの経験とスキルの高さで何とか乗り切ったのだろう。スクリプト・ガールや助監をやった人にはつくづく同情したい。
問題というか、この映画で面白いのは3の部分である。上のシノプシスに書いたようにこの映画のコメディアンはスニルなのだが、ソングシーンに限って時々タミルのコメディアン、ヴィヴェクが顔を見せるのである。ある曲などでは(それはホーリー祭を祝う祝祭的ソングなのだが)スニルとヴィヴェクが同時の登場して、アルジュンの両翼でひとさし舞ってみせるのだ。因みに言っておくと、アルジュンは決してダンスは得手ではないが全然踊れないジャガパティ・バーブよりはマシ、ヴィヴェクはコメディアンにしてはきっちり踊れるほう、そしてスニルは凡百のヒーローよりはるかに踊りが巧い。
何故ソングシーンだけにヴィヴェクが登場するのかと言えば、もうお分かりであろうが、この映画、タミル語版とテルグ語版でコメディアンを入れ替えているのである。自分の見たSivakasiではスニルがコメディアンながら重要な役割を果たすのであるが、Madrasiではその役はヴィヴェクがやったとおぼしい。というか、ネットのレビューではそうだとはっきり書いてある。基本がダブ(吹き替え)のバイリンガルでも、ギャグだけは観客に親しみの持てる母国語話者でなくてはならないものらしい。地口や早口言葉など、やはりネイティヴでないと操りかねるからだろう。インドの地方語映画では音楽監督やコレオグラファー、それに主演女優に悪漢役には互換性があるが、ヒーローとコメディアンだけは他言語圏に「越境」しないことがこれを裏づけている。3のパートはやむなく別々に撮影したものが、唯一ソングソーンだけは複数バージョンを撮る余裕がなく(予算を喰うという意味では群舞を伴うソングはとりわけ厄介者で、資金繰りが苦しくなってくると真っ先にオミットされてしまう)両バージョンのコメディアンが同居することになったのだろう。
この映画ではもうひとりコメディアンとしてMS・ナラヤナが出てるが、タミル語版にも出演しているか否か未確認であるものの、チョイ役なので出てる可能性は高いと思う。これ以外に両バージョンで入れ替えが行われた主要キャラクターがあるかどうか、Madrasiを見てないので断定は出来ないが、たぶんこれが唯一の事例だろう。もっとも維基百科によればタミル語版ではツインヒーローがともに倒れるとのストーリーが紹介されているので、両バージョンに激しい異同のある可能性は皆無とはいえない。しかしこのページには言語が英語だとしているように納得できない記述が多い。こんな凡作いまさらタミル語版を見る気力はないので、鑑賞済みの奇特な御仁あらば是非との情報の提供をお願いしたい。
そもそも自分がこれを鑑賞しようとした理由は、オンラインショップではシンドゥー・トーラニが出てるとの記述があったからだが(確かにジャケットにもそう書いてある)目を皿のようにしてもどこにも姿は見えなかった。こういう嘘や間違いはインド映画では枚挙に暇がない。
2010年11月6日土曜日
Sus scrofa leucomystax
物の本には日本のイノシシの説明として" A small, almost maneless, yellowish-brown subspecies from Japan."などと書いてあるのだが、野ぶたには立派なたてがみがあるように見えるのだがな。
因にイノシシの群れのことをsoundersというのだそうな。初めて知った。
2010年11月4日木曜日
Vipra Narayana (1954)
ANR主演のデヴォーショナルのヒット作。ヴィシュヌ派の12大聖詩人のひとりThondaradippodi Alvarの伝記の映画化。
ヴィプラナラヤナ(アキネニ・ナゲシュワラ・ラオ)はペルマル(タミルでのヴィシュヌ神の別名、Thirumalともいう黒いヴィシヌ像)を崇拝するためにスリランガムのランガナータ寺院へやってくる。かれはそこでナンダーヴァナム(花園)を開いて毎朝ランガナータに花輪を捧げるようになる。人々はかれを聖者として崇拝する。
偖ここにデーヴァデヴィ(バヌマティ)と呼ぶデーヴァダーシがいた。彼女はウラユールの宮廷でチョーラの王に舞を奉納した後スリランガムに立ち寄る。そこでヴィプラナラヤナの祝福を受けようとするが、没我の聖者は彼女を無視する。矜持を傷つけられた舞姫は復讐を誓う。
デーヴァデヴィは家人から放逐されたと偽りヴィプラナラヤナに庇護を求める。聖者は従僕ランガラージャ(レランギ・ヴェンカタラマイアー)の諌めを無視して彼女を受け入れる。デーヴァデヴィは手練手管を用いてヴィプラナラヤナを籠絡する。かれの評判は地に落ち、ランガラージャは師のもとを去る。
デーヴァデヴィはヴィプラナラヤナと肉体関係を結ぶ。嘲弄して去ろうとするとき良心が彼女の非道を説き、彼女はヴィプラナラヤナの愛を受け入れる。二人は母親を訪ねるためにナンダーヴァナムを去る。
母親ランガサニは二人を迎え入れるが、ヴィプラナラヤナが無銭なのを知ってかれを放逐する。ヴィシュヌ神がランガラージャに化身して寺院の黄金の壷をランガサニにもたらす。ランガサニは惹起してヴィプラナラヤナを受け入れる。
ランガナータ寺院では聖なる壷が失われているのが判明して騒動となる。王の兵士がランガサニの青楼で壷を発見、彼女とヴィプラナラヤナは捕縛されて王宮に連行される。王は聖者に窃盗の罰として両腕切断の刑を下すが、刑吏の刃は花輪に変わる。ヴィシュヌ神が顕現し、ヴィプラナラヤナとデーヴァデヴィの前身が天界にあったことを人々に明かす。
人々が親しんだ聖者伝を映画化したものでほとんどストーリーの起伏はない。挿入歌が連鎖的に現れ、一種のミュージカル・メドレーになっている。音楽はこの時代のヒットメーカー、サルリ・ラジェスワラ・ラオが手がけている。
ヒロインのバヌマティ・ラマクリシュナはソングでもセルフダビングを行っている。ダンスはエネルギッシュというよりは四肢の先にいたるまで極めて優美。長らくテルグ語映画界に君臨した名女優であった。
2010年11月3日水曜日
大方素食館
大方素食館は廈門の南普陀寺の近くにある。
<br /><small>大きな地図で見る</small>
[[posterous-content:pid___0]]
迎賓冷盆
[[posterous-content:pid___2]]
腸詰
[[posterous-content:pid___3]]
干祝海皇巻
[[posterous-content:pid___4]]
糖醋哩背
[[posterous-content:pid___5]]
鉄板牛排
[[posterous-content:pid___6]]
沙麺銭
[[posterous-content:pid___7]]
祥龍献瑞
[[posterous-content:pid___8]]
香泥
[[posterous-content:pid___9]]
鮑汁扣海参
[[posterous-content:pid___10]]
佛跳牆
[[posterous-content:pid___11]]
贋豚肉
[[posterous-content:pid___12]]玉米汁
2010年11月2日火曜日
Where have all the badgers gone?
Into our hungry stomachs is the correct answer, but there remain a few matters to be recorded here.
The badger came from Sinshu, the mountainous region in the central part of Japanese Islands. Monsieur Haruna has been looking for this for a couple of years. We were very honored to be seated at the table with such a precious food.
The red wine Li Yingjun prepared this night for competing with the badger meat was Grand Cru Saint-Émilion. I think his choice was correct, but one fault of it was taking too long to open fully the fragrance, and it did not go well with the easy-eating fatty meat. Stronger alcohol, Chinese Baijiu, for instance, might be balanced with it better.
祈ることと拝むこと
「祈る」ことは主体者と対象との間に社会的な関係を構築することである。神と人との「契約」である。それゆえ祈りはロゴスによってなされねばならない。また神は人格神であらねばならない。契約は自由意志をもってしか交わすことができないからだ。神と人との間に法的な契約関係が成立しているので、違約は言語によって定められた規約に則って罰せられる。十戒に細かな細目が規定されているゆえんである。それゆえ、この契約は普遍性を持つ。契約内容に汎用性がある限り、新たな信者=契約者に対しても適用することが可能だからだ。一方の契約者である神が絶対的に契約を履行する限り、他方の契約者である人には、出自や人種や文化環境といった相違に左右されない。これは「法の下での平等」という発想の根本であり、基本的人権の起源でもある。
一方「拝む」ことは、ダルシャンを通じてなされる。それは人が神を「見る」だけではなく、人が神によって「見られる」ことも意味する。
この場合、神と人との関係はあくまで個人的である。そこに何らかの約束がなされたとしても、履行を担保するものはどこにもない。その約束には汎用性がなく、普遍化され得ない。誰かが神の禍福を蒙ったからといって、他者が同様の結果に至ることは保証されていないのである。ここにおいて、はじめてバクティが意味を持つ。バクティは「無償の愛」であるが、それは母が子を慈しむたぐいの愛ではない。人は神からの視線をつなぎとめるためにバクティする。しかしそのことによって神から見られ続けるか否かを担保するものはどこにもない。バクティはある意味でストーキングに近い。神からなんらかの見返りを期待するのではなく、バクティするという行為そのものに意味がある。それは自尊心を保つための営為であり、見返らないかも知れない神に対して(そしてしばしば神は見返らない)人間としての尊厳を維持するための唯一の方策である。人はどのような苦難に陥ろうともバクティをつづける。なぜなら、バクティを中断することは、人間としてのそれまでの営為をすべて否定することになるから。というのは、バクティは人が自由意志から自発的に選択したものだからである。これは一種のアディクトである。が、同時にヒューマニスティックな悲劇性がある。なぜならここに、自由意志は一方的にしか働かないから。自由意志は人間の側に独占されているから。神が見返らなかった場合(そして神はしばしば見返らない)それは神が意図して見返らなかったのではなく、そもそも最初から神が存在しなかった可能性が否定できないのだ。そのことを知りながらバクティを続けることにこそ偉大さがある。バクティ伝承ではほとんどの場合、帰依者のバクティは見返りを受けてハッピーエンディングに終わる。しかしこれはバクティという信仰の形態を布教するための方便でしかないだろう。信仰としての重要性はバクティという行為にしかない。したがってバクティにおける苦行は究極的な自己解放を目指したり(これは近代的神秘主義の文脈の中にある)、あるいは梵天から超自然的な法力を得る(これは古代的なヴェーダの文脈の中にある)ためのものではない。それは何らかの超越性を希求するものではない。あくまで人が人間的な次元に留まり続けようとするための英雄的な行為なのである。