2010年11月23日火曜日

Veruthe Oru Bharya--Simply a Wife (2008)

特別な予備知識もなく、別にお好みの女優が出てたわけでもないのだが、現地での好評を耳にしていたので見てみた。

舞台は現代のケーララ州トリチュール。電力公社に勤めるスグナン・チェッタン(ジャヤラーム)は口うるさい亭主関白で、妻ビンドゥ(ゴーピカ)の家事労働をまったく評価せず、難癖ばかりをつけていた。スグナンはまた女性上司(ソナ・ナーイル)のフェミニスト運動を公然と軽蔑するような保守的な男だった。

スグナンとビンドゥの間には徐々に亀裂が入ってゆく。仕事仲間の家族とコダイカナルに観光旅行に出かけた時もスグナンは何かと理屈をつけてはビンドゥを遊ばせず、自分は酩酊して喧嘩騒ぎを起こす。帰宅後、スグナンのわがままから実母の死に目に遭えなかったビンドゥは、とうとう愛想をつかして実家に帰ってしまう。

片意地なスグナンは妻に頭を下げることを潔しとせず、何とかやりくりして家のきりもりをしようとするが、悉く頓挫する。特に問題だったのは思春期の娘アンジャリ(ニヴェディタ)に目配りが利かないことだった。アンジャリはボーイフレンドとこっそりドライブに出かけた先で不良に乱暴されかかり、辛うじて警察に救われる。警部(ラヘマーン)はスグナンの配慮不足を厳しく指摘して、父娘を家に帰す。

追いつめられたスグナンの精神は平衡を失う。かれは娘を自宅に軟禁して学校にも行かせず、遂には自分も無断欠勤して自宅に閉じこもるようになる。電話が不通になっているのを訝しんだビンドゥは夫の同僚カビール(スーラジ・ヴェンジャラモード)たちを伴って自宅へと急ぐ。そこでかれらの見出したのは高熱にうなされるアンジャリと正気を失ったスグナンの姿だった。スグナンは妻と友人たちを強姦魔と信じ込み、娘を守るために鉄パイプを振るうが、誤ってアンジャリの頭部を強打してしまう。

病院で正気に戻ったスグナンは主治医からビンドゥとの復縁を勧められ同意する。回復したアンジャリは両親の手を取って結び合わすのだった。

あまり評価できない映画だった。さすが芸達者な俳優の層が厚いマラヤーラム語映画だけあって、ビンドゥの父親役のイノセント、同僚役のシヴァージ・グルヴァユール、警部役のラヘマーンなど端役に至るまで演技は見事。衣装と化粧にだけやたら金かかっていて演技は学芸会並みのボリウッドとは明らかに格が違う。とりわけジャヤラームの好演は特筆に値するもであり、吝嗇で見栄っ張り、小心者のくせに片意地という小市民の卑小下劣を鮮やかに演じきっていた。しかしそれらが映画全篇の醍醐味と結びついて来ないのである。ひとつには後半部のスグナンの壊れかたにやや唐突感があるためか。妻の別居とストレスから来るノイローゼともう少しダイレクトに直結するような挿話なり描写が必要だったのではあるまいか。

しかし何といっても最大の難点は、題材そのものがわざわざ映画を1本撮る必要もないものだということではあるまいか。これだったらテレビドラマで充分だ。コケオドシといわれようと虚飾といわれようと、映画には映画として撮るべきそれなりのヴォリュームを具えた題材が必要だ。こうしたファミリードラマがそれに相当するとは思えない。と同時に、この作品が現地で受けたというところに、ツインタワーの寡頭支配体制確立以来急速に縮小傾向にあるマラヤーラム語映画界が抱える構造的問題の所在が明らかになっているように思われる。今やマラヤーラム語映画の優秀さは、もっぱら良質の風習喜劇(Comedy of Manners)を生み出すところにしか、機能を発揮しないようになってしまった。なんで風習喜劇しか作れないかといえば、観客に中産階級しかいないからである。ケーララではもう、映画は労働者階級のものではなくなってしまった。中産階級の生活習慣を超えたような(あるいは下回ったような)度外れた想像力の跳躍、それが生み出すところのヴォリュームの厚さはここでは最早望むべくもない。じゅうぶん分かってはいたことながら、やはり大いに残念である。

0 件のコメント: